「檸檬」(れもん) を読み返すと若い頃の心の痛みが甦ってくるような/梶井基次郎は私たちにとって永遠の青年?

こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。
近くのお店でコーヒーを飲みながら梶井基次郎の「檸檬」(レモン)を読み返していました。
最初に、「31歳で夭折」の文字と学生時の写真が目に入ってきます。
純粋でまっすぐな眼差し、いかにも当時の青年らしい魅力に富んでいます。
もちろん今どきの若者の、こざっぱりさとは違うのですが。
京都の寺町から二条通りへ
夕暮れ時、作者が歩いているのは、京都の寺町から二条へ向かう通り。
目の前の暗闇にいきなり、幾筋もの光の線の降り注ぐ八百屋さんが現れます。彼がこれまで見た中で最も美しいと思う八百屋さんです。
その店先で一個の檸檬を買います。ひんやりと冷たい、円錐形の重みを持った果物。
(きっとこの頃の檸檬は、今よりも、もっとエキゾチックで不思議な魅力に飛んだ果物だったことでしょう)
檸檬を手に丸善に向かう
その冷たさと重みを掌の中に確かめながら、彼の足が向かったのは丸善でした。
普段は遠慮があって決して入らない所。手に檸檬をにぎっている今夜は、なぜか入ってみる気になります。
売り場に行くと、何冊もの本を抜き出しては積み上げ、そのてっぺんに檸檬を置きます。そして、そのまま檸檬を置いて店を出てしまうのです。
「変にくすぐったい気持ちが街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢が私で・・・・・・・」
檸檬をおいてきた・・・?
この檸檬はいったい何の象徴なのでしょう? 純粋な梶井基次郎という青年の精神そのもののように思えます。
硬質な透明感を持つ彼の精神は、知識を詰めこんだ本の中にあっても少しも浸食されるものではありません。

丸善と言えば、若いころの私にも敷居が高い場所でした。いかにも知性的なインテリ好みの雰囲気、高級そうな文具、それらの似合う都会の知性的な人々。
丸善はそんな人々を象徴する場所でした。
事実は、ものの質を高めることによってあの格調が生まれているのでしょう。
梶井基次郎のいかにも青年らしい写真を見る度に、私の心の中に痛みのようなものが走ります。
そのふっくらした頬と瞳の中にある含羞。見ているといたたまれない気持ちになり、そしてそう思う自分をはなはだ恥ずかしく情けなく思うのです。
最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。

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