玉木屋の娘

                                                    根本 幸江
「なんだか、最近物騒だから気をつけたほうがいいよ。女二人の家はそうでなくても目をつけられてるはずだからね」

 春のはじめの八ツ時、外はまだ明るいものの、開き始めた桜もあわてて蕾を閉じるような冷たい風が吹いている。少し早めに店を閉めようか。そう思いながら店の外に出たゆらは、店の前でお静とばっちり鉢合わせした。
「このところ、所払いになっていた権太が戻ってきて、 うろうろしているのを見たって人がいるんだよ。あんたのところにも知らせようと思ってね」
 南本所小泉町にある木版師のこの店では、夕方過ぎに通いの職人の作治がいなくなるとぐっと寂しくなる。母親と娘二人の生活というのは、近所の人々も知っていて、何くれとなく気を付けてくれる。

 お静は通りのはす向かいで、十年もそばの店を出している。凝り性で、味がいいので客が途切れない。
「これ、さっき店の余りなんだけど、今晩のおかずの足しにして」
「おばさん、ありがとう。いつもすみません」
 甘辛く煮たアブラゲが小鉢の中に入っている。
 寂しい暮らしなのはもちろん、版木づくりの仕事もほとんど職人の作治にやってもらうばかりで、それを見越して一昔前と比べると仕事もぐっと減った。せいぜい 蔦谷の旦那さんに急ぎの仕事を回してもらうくらいで、一度小さくなった商いを元に戻すというのは、なかなか難しかった。

 お静の声を聞きつけて、女親の多江が奧から顔を出した。
「あら、お静さんだったのね」
 暮れかけてくると、もう寂しい、といって、三年前に亡くなった、夫の清吉の位牌のある仏壇の前に座って半時もそのまま動かないことがある。
 お静が来たのは、アブラゲだけのためではない。どこか上気したような顔であがりかまちに上がり、框に座り込んでため息をひとつついた。

「入ってお茶でものみなさいよ」
「いやだわ、お構いしないで」
とは言いながら「じゃあ、ちょっとだけね」もう履き物をぬいで上がりかけている。

 三和土に下駄をそろえて脱ぐと、腰をかがめ、のれんをくぐって家の中に入ってきた。座り込むとお静は、横にあった団扇を手に取りぱたぱたと顔をあおいだ。結った髪のすそから後れ毛が落ち、扇子の風につられてゆれる。

「この家は、特別なにおいがするねえ」
 お静があたりを見回しながら言う。
「いやねえ、どんな匂いなの?」
「そうじゃないわよ。墨の匂い。それと絵の具の匂い」
 お静は鼻をふくらますようにして息を吸う。
「あら、そう」 
 親切で言ってるつもりなのだろうが、多江は素直に聞く気にならない。だいたい夕食も間近な時刻に、いくらすすめられたからって、上がり込むもないもんだ。
 そして座り込んだまま時々多江の顔を見ては、思わせぶりに、ふふと笑っている。

 

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