グリーンベルト(50)

「それから一度もヘレンにもキヨミさんにも会ってないわ」
 私はキヨミさんの顔を思い出そうとした。それは30年前のあのときの顔で、彼女もすっかりおばあさんのはずだけどまったく歳をとっていない。
 そして今もあの森に一人で住んでいるのだ。アメリカに渡ったピルグリムファーザーズが最初に見たのと同じくらい深い深い森の奥に。

「今も、犬と一緒にベッドで寝てるのかしら」
「いやだ、犬はもうとっくに死んでますよ」
「確かにね」

 私はあれから何年たったかと指折り数え始めた。すると、ちょうど30年経っていたのに驚いた。
「30年、30年たったのよ」
 そう叫んでかたわらを見ると、恵子さんはいつの間にかテーブルに頬をつけて眠りこけていた。
「疲れてるのね。風邪をひいたら大変じゃないの」
 私は着ていたカーディガンをかけてやると、脚をひきずりながらベランダに出た。

 外はもう暗く風が森の方からうなりながら吹き上げていた。私は、30年前のあのときの会話を耳の奥に聞いていた。
「30年たったら行くかもしれない・・・・・・」
「まああ、冗談でしょう」葉子さんが叫び、
「本気かもしれないわよ」
 キヨミさんが薄い唇をゆがめて、ふん、と笑った。

 その時、風が強く吹いて葉っぱをいっせいにめくれ上がらせた。森の奥で風が渦巻いている。30年前にアメリカの森で見たのと同じだ。私は初めて気がついた。なんだ、ヘレンの森もこの森もつながっていたのね。
 手すりに大きく身を乗り出したのは、めくれ上がった葉っぱの向こうに人影を見たように思ったからだ。私は大声で叫んだ。
「キヨミさんなのー」
 声はすぐに森の奥に吸い込まれていった。

                 (了)

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