なぜ女性の政治家は途中から変わってしまうのだろうか。
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。
12日はNHKの大河では、城を守って討ち死にした女城主、田鶴を中心にストーリーが展開した。
夫亡き後の城と領民を守り、最後には降伏することを拒み誇り高く死んでいった凜々しく哀れな女性だ。
そんな中3月20日、「三浦瑠麗氏『都知事選出馬』待望論が自民党内で浮上していた・・・というニュースを見かけた。(NEWSポストセブン)
三浦瑠麗さんと言えば、国際政治学者にして東大卒の美人。
テレビにひんぱんに顔を出し高級タワマンに住んでヨットを所有、同じく東大卒の夫は実業家と、まるで絵に描いたような超セレブの生活だ。
そんな三浦さんをうらやむ感情はあるにしろ、好きだと思う人はあまりいないかもしれない。
男性はわからないけれど、少なくとも女性は・・・。
その理由のひとつが、なんとなくウソくささを感じてしまうからだ。
人というのは、どんな思想を持つにしろ一貫性があると思うのだが、三浦さんは、何を考えてそうしてるのだろうと、不思議に思うことがたびたびあった。
もともと保守系の人らしいし、きっとそんな立場でいろいろなところに呼ばれていたのだろう。それに東大卒の美人というのはそれだけで魅力いっぱい。テレビ局から引きも切らずだったに違いない。さまざまな立場の人から素晴らしい逸材と見られたのも無理はない。
でもおばさん、ばあさん視点では一寸ばかり違う。どうにもうさんくさく思えてしまうのだ。
だいたいほんとうに賢い人で本物のセレブなら、あんな見せびらかしはしない。
そして三浦さんは、たびたび小池都知事を非難するようなスタンスをとっておられた。そんなところももてはやされた一員かもしれないが、今となっては二人の違いがよくわからない。
お二人とも、人からどう見られるかを常に意識している女性に思える。
なぜ女性政治家は変わってしまうのだろう
そしてがっかりするのは、信念をもつ女性政治家が徐々にその信念をまげ、輪郭もとどめないくらいにぐにゃぐにゃになってしまうことである。
なぜだろう。なぜ女性政治家は徐々に変貌してしまうのだろう。もともと信念なんてなかったのか。単なる処世術だったのか。
防衛大臣になった女性が、胸に大きなリボンをつけて海上自衛隊の観閲式に現れたときにも驚いたが・・・。
女性政治家の皆さんには、戦国の女城主、田鶴さまを見習ってほしいな、と思う。自分の身を顧みず城や領民を守ろうとした強さ。それが一輪の赤い椿に象徴され、今も人々に慕われているのだ。
やみくもに女性政治家をふやすより、信念を曲げない女性政治家を育てることのほうがずっと大切だ。そんなひとがいたらきっと応援したくなるだろうな。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。